Chose de parler de la danse ダンスについて語ること

Autoportrait de l'auteur en danse :パリ、ダンス、言葉の敷石を踏みしめて

ピナ・バウシュを読む その3 京都賞受賞記念講演前半

「舞踊と演劇の境界線を打破し、舞台芸術の新たな方向性を示した振付家」として、ピナは2007年、日本の「第23回京都賞」を受賞している。記念講演で語られた一生を前後半に分けて振り返る。

ピナ・バウシュ | 第23回(2007年)受賞者 | 京都賞

 《受賞理由》ーー人間の動きの根源的な動機を追及した独自の振付法で、演者と観客双方の感性に肉迫する独創的な作風を確立すると同時に、舞踊と演劇の境界線を打破し、舞台芸術に新たな方向性を与えた。

1973年以来ヴッパタール舞踊演劇団の芸術監督として、ドイツ表現主義舞踊の、社会と個人の現実を追及するスタイルを継承しつつ、モダンダンスの新しい身体・舞台表現を融合した。代表作『春の祭典』では「豊穣を願うため犠牲として選ばれた女性が死に至るまで踊り続ける」というストラヴィンスキーのコンセプトを再現、全体と個人、残虐性と麻痺、陶酔と恐怖などのテーマを描き出した。

バウシュ氏は、人間の内面から沸き上がって肉体を突き動かす力を追求し、動きの意味や理由を重視する独自の演劇的手法を確立。1976年以降の『カフェ・ミュラー』、『コンタクトホーフ』等、作品には言葉、歌、日常の仕草が意味を持つ動きとして取り入れられている。土や水、植物や動物など、自然の産物を大胆に取り入れた舞台美術。氏は「舞踊演劇の創始者」として認知された。1986年ローマに滞在して創作した『ヴィクトール』はじめ様々な国の都市で「国際共同制作」を行い、異なる文化、価値観との接触を作品に反映させた。

テーマは、孤独や疎外、男女間の葛藤、個人と社会の対立、自然と人間の関係など。現代に生きる人々の普遍的かつ切実な問題だ。ダンサーとの綿密な対話から作り上げられる作品は、見る者の記憶や感性を直接に刺激し、従来の舞踊作品とは別格の激しい反応を引き起こす。既成の価値観は崩壊し、新たな現実と真実の認識を迫られる。舞踊と演劇の境界線を打破し、舞踊に社会と時代を映し出すメディアとしての新たな可能性を示した。舞台芸術全般に新たな活力を与えた。

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《記念講演》ーーピナの講演原稿から、印象的な箇所を抜粋した。

・幼少時の家庭環境ーー両親は、私のことをとても誇りに思っていました。私のダンスを見たことがあったわけでも、特にダンスに興味があったわけでもありません。でも、私は両親から愛されていると感じていました。何も証拠は要りません。両親は私を信頼し、決して非難しませんでした。私は罪悪感を抱く必要が全くありませんでした。大人になってからもそれは変わりません。このことが、両親が私に与えてくれた最もすばらしい贈り物です。

・「私」は何を表現すべきか、「私」は一体何を主張したいのか、さらにどんな方向へ「私」は進んでいくべきなのか、ということを見つけなければなりません。おそらくここに、その後の仕事の基礎が置かれたと言えるでしょう。

・師ーー二人目の父のような存在、クルト・ヨースです。私にとって、彼の人間性と物の見方は最も重要でした。大事な年頃に彼と出会えたことは幸運でした。

・学生時代に背中の痛みがひどく、医者にかかった結果、診断はすぐ踊ることを止めなければ、半年もしないうちに松葉杖の生活になるだろう、というものでした。ーー私は、たとえあと半年間しか残されていなくても、踊り続けようと決心しました。自分にとって本当に大切なものについての決断を下しました。

困難な状況において自分の平静さを保てること、困難からエネルギーを生み出せることに気づいたのです。それこそ信頼できる自分の能力でした。

・ニューヨーク生活(ジュリアード音楽院時代)ーー英語を話せず、楽ではありませんでした。カフェテリアで、欲しいものを指差すことはできました。ある日、財布を忘れ、レジで事情を説明しようとしました。バッグからトーシューズや他のシューズを出してカウンターに並べ、全部ここに置いて再び戻ってくるからと言いました。するとレジの男性は、私が帰宅できるように、5ドルをポンと渡してくれました。私を信用してくれたことが信じられませんでした。以降、ただこの男性に挨拶するためにだけ、私はそのカフェに通いました。ニューヨークでは、よくこうした場面に遭遇しました。人々は親切でした。

・ニューヨークでは、与えられたものは何でも吸収しました。当時のアメリカのダンス界は、ジョージ・バランシン、マーサ・グラハム、ホセ・リモン、マース・カニングハムといった。卓越した人たちが活躍する黄金時代でした。私が学んだジュリアード音楽院の教授陣も、アントニー・チューダー、ホセ・リモン、グラハム舞踊団のダンサーたち、アルフレッド・コルヴィーノ、マーガレット・クラスクといった顔ぶれでした。さらに、ポール・テイラー、ポール・サナサルド、ドーニャ・フォイアーらとも数え切れないほど一緒に活動しました。

・私は毎日公演を観ました。すべて重要で比類の無いものでした。そのため、1年分の予定費用で2年間滞在しようと決めました。倹約のためまず歩くことにしました。アイスクリームだけ(ナッツ・アイス)で栄養補給しました。それに小瓶のバターミルク、テーブルの上のレモン、大量の砂糖、全部を混ぜるとおいしいのです。絶妙な組み合わせのメイン・ディッシュでした。

私は痩せていくことを気に入っていました。さらに自分の内の声に、自分の動きに耳を澄ますようになりました。そうすると何かしらもっと純粋に、より深まる感じがしました。思い過ごしだったかも知れませんが、身体の変化だけではない何かある変化が起こっていました。

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・フライトで荷物を紛失してーー以降、どこへ連れて行かれようと、もう不安はありませんでした。到着時の私の所持品は、ハンドバッグ1つだけで、この一連の出来事は、すべて予想外の展開でした。行動できた理由はわかりません。それほど行動する力があるということも意識していませんでした。

・舞台上でのアクシデントーーあのように立ち続けられた理由もほとんどわかりません。考えた末の行動ではなく、単にそうなっただけなのです。想像したり、望んだりするのではなく、何かをすると、何かが変わるのです

・振付を始めた理由ーー力を出し切っていない、物足りない気持ちがありました。踊ることに対する強い欲求と、自分自身を表現したいという衝動があり、私は振り付けを始めたのです。

・ある時、ヨースがリハーサルを見に来て、「なぜ君はいつもあっちこっちと床に這いつくばっているんだい?」と聞きました。自分にとって重要なものを表現するために、他人の動きという素材や形式を利用することは私にはできません。その人に対する尊敬の念からそう思うのです。すでに見たものや習ったものは、私にとって触れてはいけないタブーです。なぜどのように自分を表現できるのかという袋小路に自らを追い込みました。

・プラン通りにするか、どこへ導くか分からない何かを思い切って試みるか、決心が必要でした。私の初作品では、まだプランに沿っていましたが、その後、計画を立てること自体を止めてしまいました。それ以降、私は思い切った試みを続けています。それがどこへ向かうのかは分からないままです。

・振付家としてーー本当は常に踊っていたいだけでした。とにかく踊らずにはいられませんでした。踊りこそが自分を表現できる言語なのです。ヴッパタールにおける初期振付作品のうち『春の祭典』の犠牲者役や『タウリスのイフィゲネイア』のイフィゲネイア役などは、自分自身で踊りたいと思ったほどです。役柄はすべて私の身体を用いて書かれているからです。しかし、振付家としての責務のため、踊りたいという欲求をいつも抑えてきました。本来私の中にある愛情、踊りたいという大きな願いを、他の人たちへ譲り伝えることに至ったのはそういう訳からです。

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・私たちがブレヒトとヴァイルの夕べを催した時、オーケストラの何人かの楽団員は、「こんなものは音楽じゃない」と言いました。私はまだ若く、経験不足でしたので簡単にあしらえると考えたのでしょう。とても心が痛みました。しかしそのようなことで、自分が大事に思うことを表現したり、試みたりすることを止めようとは思いませんでした。決して怒らせるようなことはせず、ただ私たちについて話すように心けたのです。

・ダンサーたちは、私とともに大いに誇りを持ってそのような困難な道を歩んでいました。それでも時には摩擦が生じました。あるシーンの出来がとてもよく、私は喜んでいるのに、ダンサーの一部はショックを受け、不平を言いました。私の指示は不可能だと言うのです。

その4・後半へ続く