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Chose de parler de la danse ダンスについて語ること

Autoportrait de l'auteur en danse :パリ、ダンス、言葉の敷石を踏みしめて

ピナ・バウシュを読む その2 Orphée et Eurydice - Pina Bausch 

Danse Le ballet de l'Opéra de Paris

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ピナと一緒に仕事をした振付家の証言。

「誰でもあきらめたこと、手放したものがある。一方でどうしても捨てられないものもある。戦争、災害、生き延びたばかりに、死ねなかったことを一生悔やみながら残りの生を生きざるを得なくなってしまった人々もいる。笑っているから幸せとは限らない。

自分を律して前に踏み出さなければいけない精神…ピナと仕事すると、先人たちの思いや営みがよぎる。すると自分の創るダンスはもはやダンスではなく、自己表現ですらなく、もっと自我を超えた大きな力なのではないかーーと」

ピナ自身はドイツ人でダンサーとしての訓練もドイツで積んだ。しかしヴッパタール舞踏団のダンサーは、国籍、言葉、文化、年齢から体型までバラバラ。異なるバックグラウンドを持つ人間が集まる。

舞踏団の年配ダンサーは「ヴッパタールは年を取っても必ず役が与えられる。ベテランになればそれだけ経験も可能性が広がったと認められた、そう感じられる」と言う。普通は30過ぎたら引退を考えてもおかしくはない。

ピナの仕事とはつまり、共通点なきダンサー一人一人と対話を交わしながら彼らに眠っている感性を探り出し、ひとつひとつ選り分け、世界の人々の共通理解可能な言語ーーつまり「ダンス」に翻訳した、といえるかもしれない。

ピナがダンサーに要求するレベルは、ありきたりの訓練で得られる次元とは完全に異なる。それが、ギエムがピナと仕事をしたいと思っていたにもかかわらず怖くて踏み出せなかったと言った最大の理由だと思う。言い換えれば、ダンサー達自身の既成概念の殻を、自ら打ち破る精神力を試されること。ギエムは自らの防御壁を破るなどできなかったはずだ。その気持ちは痛いほどわかる。ピナとギエム、この二人は、生きている方向性が真逆なのだから。

f:id:kotorio:20170228050208p:plainピナ作品を語るときいつも「愛」という言葉が使われる。にもかかわらず、作品そのものは暴力的で、某「すみれコード」にも反するものばかりだ。生々しく、激しい感情をぶちまけたような表現、舞台上の叫びあいに、わたしは生理的嫌悪感、吐き気を催してしまう。

わたしにとってダンスもバレエも、ましてやパリオペも、至高の芸術で、聖なる領域だ。コンテ作品であればなおのこと。クラシックの「型」を突き破り、魂の自由を再現するからこそ、ミリ単位で鍛え抜かれたプロフェッショナルなダンサーの身体、技術、ほとんど修道僧のようなギリギリの精神が必要だ。それに対して我々は驚異し感嘆し、自らの思考を高める喜びを得ることができる。

自分の半径5メートルに容易に置き換えて理解できるようなものは知性でも教養でも、ましてや芸術でもなんでもない。

痛みと怒りがどうして「愛」につながるのか。絶望を絶望だと叫ぶことがなぜ、人々にそんなにも受け入れられたのか。それは「ダンス」という表現芸術がしなければならないことなのか?それがーー人々がダンスに求める「癒し」なのか。

それによって死後も過大な?評価をされ続けているピナ(あの3D映画のせいで)。

彼女が開いたとされる「ダンスの可能性」とは。ピナの作品になぜダンスを見なかった人までもが「慈愛」を感じ取り「これはわたしの物語だ」と涙を流すのか。

2008年京都賞受賞時のピナ自身の講演を前後半に分けて読み解く。その3に続く。

ーーー私は、生まれながらに持っている 自分自身の身体というものの大切さを感じます。 身体はその人そのものです。 ピナ・バウシュ