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Chose de parler de la danse ダンスについて語ること

Autoportrait de l'auteur en danse :パリ、ダンス、言葉の敷石を踏みしめて

シルヴィ・ギエムという生き方・その2

Danse

フランス国立視聴覚研究所(INA)アーカイブに19歳のギエムの映像が残っている。

www.ina.fr

・体操からオペラ座ダンサーまでの道のり

ギエムは1965年パリ生まれ。父方の祖父母はスペイン内戦でカタルーニャからフランスに逃れてきた移民。祖母はフランス語が話せず、読み書きもできなかった。周囲を嫌って暮らしていた。後年、ギエムは自分がコミュニケーションが苦手なのはこうした家庭環境に由来するかもしれないと語る。

母親は体操教師、父親は機械工。母親の指導のもと、体操をはじめオリンピック出場をめざすほどに。11歳のとき「表現力を高める計画のもと」突然、パリ・オペラ座バレエ学校で一年間バレエを学ぶ研修生に選ばれてしまう。

フィガロ紙に語ったーー子供の頃の夢は「パン屋さんかお菓子屋さん」

パリ・オペラ座バレエ学校の教師は「魔女」であり、校内も寮も陰湿きわまりない雰囲気。英「インテリジェント・ライフ」誌の記事。

「あの学校の校風は異様。誰も楽しんでいる様子がなかった」

f:id:kotorio:20170212011056p:plain 教えられたことをこなすのは簡単だった。バレエ学校の1年が終わる頃、公演の声がかかった。バレエを楽しいと思ったことはなかったが、舞台に立つ感覚は知りたいと思った。衣装合わせや舞台メイクの準備をするうち「舞台こそ人生でしたいことだ」と確信した。以降、学校は嫌でもバレエの練習に励みトップで通過。1981年、16歳でオペラ座バレエ団のコール・ド・バレエに入り、1984年、19歳でルドルフ・ヌレエフによって史上最年少、最高位のエトワールに抜擢される。

・キャリアは自分で決める

「シルヴィ・ギエム」という名は1980~90年代の世界最高のダンサーの一人として確固たる存在に。だが彼女には反対派も多い。もっとも叩かれたのは、片足トウで立ち、もう一方の足を頭まで真っ直ぐ高く上げる「六時のポーズ」。バレエは体操ではない、クラシックの伝統を覆す下品なポーズである、と。マラーホフのパロディも有名。英「スペクテイター」誌より。

f:id:kotorio:20170212010924p:plain「私の踊り方に我慢がならないと私を嫌う人も多いけれど、仕方ない。万人に気に入られたいわけではないから」 

強靭かつ柔軟、神から授けられたような身体をもつギエム。伝統を打ち破り、挑戦することで、表現の枠を広げてきた唯一の女性ダンサー。1987年、振付家ウィリアム・フォーサイスがギエムのためにコンテンポラリー作品『イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド』を振り付けた。(フォーサイスの代表作)

・国家的損失とまで言われた英ロイヤルへの移籍

23歳という若さで、パリ・オペラ座を離れる。世界中のバレエ団からのオファーでの客演、フォーサイスのような前衛振付家との仕事など、新しい挑戦をパリ・オペラ座が許さなかったからだ。英ロイヤルが「年に25回公演に出れば、あとは自由にしていい」という条件で、ギエム獲得に成功する。一方フランスでは「国家的損失」と大スキャンダルになった。オペラ座を出てどこに行くところがあるのか(オペラ座こそが世界最高峰なのに)という人もいた。

再びフランス国立視聴覚研究所(INA)のアーカイブ。移籍公表当時の映像がある。

 (*それにしてもこのような貴重な映像が国によって管理され、無料で一般公開されているのも芸術の国フランスならでは)

www.ina.fr

世界最高峰の美と歴史と技術集団であるパリ・オペラ座から、より「演劇性」の深いロイヤルへの移籍は、若くしてトップに登りつめ、世間のしがらみで孤立していた彼女を一層円熟させた。フォーサイスは言う。「彼女は自分のキャリアを自分で決めた最初のバレリーナ。そのことだけでも偉業だ」

その3へ続く。