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Chose de parler de la danse ダンスについて語ること

Autoportrait de l'auteur en danse :パリ、ダンス、言葉の敷石を踏みしめて

Depuis le printemps 春なので

Danse Quotidien

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やっぱりダンスはいいー。

光があふれて、音楽が流れれば自然と体が動きだす。

2年この先生のもとでやってきた。途中、何度も嫌だったし、やめようとしたし、腹がたった。やる気のない生徒にムカついたりもした。でもそうやって日々を積み重ねて、ようやく「この国の人々」「やりかた」「フランス流」に慣れてきた、のかもしれないーーーと思った今日。

好きになるのは時間が掛かる。愛し、その場にただ居つづけること、それがどんなに「努力」を要することか。いつも同じ時間に居続けること、毎週、毎月、似たり寄ったりの振りのように見えても、何か違う点を見つけて飽きないこと、やめないこと。それが一発きりの大きな芸よりも、どんなに尊く、人として大きなことか。

さっき、踊りながら、ただ単純にダンスが好きだ、それを止めることなんて一生できないんだと思った。2年経って、この仲間たちが自分を自然に受け入れてくれている、そして自分も受け入れようと(ある意味諦めかもしれないとも思いつつ)している、そう思える。

「時が解決してくれる」ものなんて何もないと基本思っている。でも、時が経てば「おんなじ」であり続けることなんてできない。人は進んでいく。よくも悪くも。だからこそ、弱く、もろく、愛おしい存在だと。

袖すり合うも多少の縁、だなんてフランス語には存在しない言葉と概念だと思う。

でもこうしてここに集い、同じ音楽で同じ振りを踊って(みんなめちゃくちゃだけど)それでも汗を流して「気持ちいいー」ってまたね、を言い合える「仲間」であったという事実は、それだけで、意義があったんじゃないか。

そう考えると、その時間を提供している教師に対しても、少し違う想いが湧いてくる。これまでは、ダンスの内容はともかく、パーソナリティーの部分でちんたらして個人的に腹をたてたことも多かったけれど、どうもそれは個人に対する違和感というより国、文化、習慣、人種的な差なのかと。また先生自身も怪我・手術を乗り越えて以降、随分態度が変わったような気がする。

何より、教師がそれでも長年続けてきたという事実、これからもそうでありたいという願い、彼個人が諦めたもの、失ったもの、能力・体力の限界と日々戦いつつ、職業として生きていくということ。その先生の「あり方」に、全面的に賛成できないにせよ、何かしら共感できるものがあったからこそ、私は2年前、この教師のことを徹底的に調べ尽くし、この先生を選び、自分の意思で、今もついていってるんだと思う。それはあくまで、私自身が選んだことなのだ。

2年経って、この先生のスタイルもわかってきたし、何を好んで何を嫌うか、そういうのも言われる前に飲み込めるようになってきた。だから私も教師が嫌がることはなるたけ避けるように「努力」して、自分を変えてきたと思う。

 

今、改めて私にとってのダンスとはーーー

自分を、過去を、未来を、他人を「ゆるす」こと、ちっぽけな自分を知ること。

それを一生学び続けることなのかもしれないと。