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Chose de parler de la danse ダンスについて語ること

Autoportrait de l'auteur en danse :パリ、ダンス、言葉の敷石を踏みしめて

パリの冬桜 2月4日雑感

 パリの朝がだいぶ明るくなってきたな、と思う。今朝は良く晴れて光が差している。肌を切るみたいな久しぶりの極寒。朝は気温0度。日中も2度までしか上がらない。この寒さが嫌だ嫌だといいつつくせになる。

 ノエルあたりからずっと咲き続けている寮の前の冬桜が、毎日気になっている。背は低くて、私の目の高さで咲いている。八重ででっかいのは確か十月桜というらしい。するとこのシンプルな一重の、ちょっと恥ずかしがりの女子高生みたいな薄桃色はやはり「冬桜」と呼んでいいのだろうと思うのだけれど詳しい学術名なんて分からないし、知らないほうがいい気がする。

 いったい何故、どうしてこんなところに。よりによって私の出身国の植物が、堂々2ヶ月も花を咲かせ続けているのか。

 その横をフランス人、チュニジア人、ギリシャ人、イタリア人、モロッコ人、いろんな国籍の、肌の、瞳の、言語の学生が通り過ぎてゆく朝の風景。この木の名を知っている者はどれぐらいいる?何故、よりによってこの私がこの木と同郷なのだろう。

 とある日本人が、何年か(あるいは何十年か)前に植林した。と仮定したとして。いったい何のために?どのような目的で?わざわざこんな北海道より寒い場所に。

 ノエルの頃はまだ花もわずかで、ただ薄い桃色が寒空に透けてきれいだなあとぼんやり見ていただけだったけど。毎日、脇を通過しているうちに疑問のほうが大きくなってきて、その物語を知りたくなってきた。だってどう考えてもなにかしら、そこには私の出身国に関わる人と意味、行動と結果があったわけで。日本からとは限らないかも知れない。ワシントンだとかの桜かも知れないが。

 同じアイデンティティのかけらに、母国の言葉でふと木に訊ねかけてしまうのだけれど。そのたびに違う物語を頭の中で考案しようとするのだけれど。なんだか彼(または彼女)はそっけなくて、日本語では応えてくれない。いってみれば日仏ハーフの人を目の前にしているような感覚。ルーツは確かにあなたの国だけど、育ったのもパスポートもこっち(フランス)だから、とつき返されているような。決して冷たい、嫌な奴じゃないのだけれど、フランス的独特の距離感が私と木の間にはゆるぎなく存在していて、毎日決まった挨拶しか出来ない。

 私もトラムに乗るころにはすっかり忘れて仏語のテキストを開いたりしている。でも寮に帰って来れば、不思議とその木に「ただいま」と語りかけている。これはちょっとばかし、厄介だ。どうしてチューリップとか、水仙とか、大きなマロニエの木とかじゃ駄目だったんだろう。中途半端に同胞の親しみのようなものを感じてしまうと、逆に歩んできた道のりの違いが際立ってしまうような。

 37年の痛みの中をなんとか水面から顔を出し続けながら、足でもがいてここにたどり着いたひとりが居るとしよう。ただそれだけ。なにかを得るのではなく、生まれた瞬間に損なわれていた人生を、その欠落を埋めることなく肉体だけ生き続けている一生というのは、あるいは木に生まれていたら、そんなこと苦痛にすら思わなかった出来事かもしれない。木は痛みを感じるだろうか。だとしても、喪われたかつてのなにかを取り戻すために存在したり、来年の花を咲かせるわけではない。

 木の前を通りながら、私は毎朝、何かしらの教訓めいたものが得られるのではないかとお門違いの期待をしている。もちろん木はただそこに、存在しているだけ。私のことなんて見向きもせずに、けなげな花を咲かせている。かすかな失望感にも似た気持ちで、私はそこを通り過ぎる。なぜかは分からない。

 気づけば、もう日本では「立春」なのだなと。これからはただ春の声を日一日と近くに聴くようになるのだ。春になれば、冬の桜は化粧を落とし、緑の若い素顔を爽やかに風に揺らすのだろう。