Subscribed unsubscribe Subscribe Subscribe

Chose de parler de la danse ダンスについて語ること

Autoportrait de l'auteur en danse :パリ、ダンス、言葉の敷石を踏みしめて

個人の国で

 月のはじめの週は振付だから皆来る。ラストの週、総仕上げで教師はフォーメーションを組ませたり、アドヴァンス的な応用があるから出てくる。2週目と3週目が、皆、中だるみになるんだ。

 昨日加えた振りは最後皆ガッと中央に集まって、左右2パーツに分かれ総仕上げ。半年前ガラス越しに見たら震えるほど感激していた景色のなかに今自分はいるんだ、と鏡を見て思った。でもそれだけ。この一瞬が「ヴィジュアル」として共有できたからと言って、精神的な繋がりはなにひとつない。

 いつも、ついていける誰かを探し、求め続けた。じぶんを、こころを込めて叱ってくれる、乗り越えたい大きな存在。理想でしかなく、だからこそひとり二役を(あるべき大きな存在とそれを追う未発達な自分)こなして今日まできた。

 それは自然な状態とは言えない。

 ダンスでは「師」ではない、ただのインストラクター、集う仲間はグループに見えても単なる個人の集まり。それはそれで寂しい。

 メンバーがこの教師のもとに集まる理由って何だろう。私は最初クラスを見てひと目ぼれし、ダンスとはいつもそういう内的衝動に突き動かされて行くものだと思って。(誰に頼まれて踊っているわけでもない)

 逆に何の感銘も受けない教師のところへは行く気もしないし、レッスンを受けていると気分悪くなるんだけれど、どうして普通の人はそれが平気でできちゃうんだろう。「グレーのゾーン」を生きることがどうして可能なんだろう。

 「関わりたい」と熱望(Craving=渇望:burning desire)するもの、「関わりたくない」(生理的に受け付けない)ものとの境界線がはっきりしている。

 教師、指導者、コーチ、技術のみならずその人間性に優れているから弟子が集う。でも少なくともダンスをしていて自分の「成長したい」という熱意に応じるものはない。フランスだからか?個人主義とはこういうことだからか。どこまでがパーソナルな理由であるのか、あるいはそうではなく、文化的な差異か。

 どれだけダンスで目立って行こうが、一番クラスに出ていようが、通り過ぎてゆく「エトランジェ」であることに変わりはない。教師にとっては、やはり見慣れた顔(自分の弟子)のほうが安心するのだろう。

 生徒を成長させる場所ではない。それを求めるのであれば、私のほうが他へ行かなくてはならない。業務として教師は仕事をしているだけなのだから。

 それがフランス、個人主義ということなのか。そうであろうとなかろうと、私は強くなければ、生きてゆけない。