Chose de parler de la danse ダンスについて語ること

Autoportrait de l'auteur en danse :パリ、ダンス、言葉の敷石を踏みしめて

シルヴィ・ギエムという生き方・その4

・引退公演「ライフ・イン・プログレス」

2011年初演のマッツ・エック振付「BYE」。ギエムが、1995年「スモーク」で仕事をしたエックに電話をかけ「引退前にもう一度一緒に仕事をしたい」と頼んだ。エックは15日間でこの作品を作りあげた。ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111」の第二楽章、ベートーヴェンが最後に作曲した楽章だ。トーマス・マンの『ファウストゥス博士』第八章で以下の記述がある。

「リズム的なコントラストの百の世界を通って行くこのテーマが、異様に高く発展して、遂には彼岸的あるいは抽象的と言ってよい、目も眩むばかりな高みに消えていく」

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舞台冒頭のギエムは、暗い緑色のカーディガンを着ている。どこからどう見ても中年女性。やがてカーディガン、革靴、ピンクの靴下を脱いでいき、曲が動き出す。まさに彼岸的な高みに達したムーブメントだ。

「どんな素晴らしい瞬間にも終わりは訪れる」BBCでギエムは語った。

「この作品の女性ーーたくさんの女性が出てきたように感じる人もいれば、ソロ作品と思う人もいるかもしれない。大人に成長することがなかった女性、人生の次のステージに行きたくないのに行かされる女性、有頂天で踊る少女、年齢という現実に直面する女性までーー振付家エックの言いたいことは明確だ・・・私の48年間が描かれたのだから」

「この作品を踊らずとも物事には終わりがある。キャリアにも、人生にも、ラブストーリーにも。が、それらを伝え、現実を直視するのにちょうど良かった。私たちは新しいことを始めなければならない・・・」

ラストは、中央の白黒のスクリーンに入り、名もなき群衆とともに舞台から去る。

・引退後の暮らしーー「リベラシオン」紙によれば。

「11歳以降、ダンサー人生しか知らないのだから引退後は当然大きな空虚感に襲われるだろう。その空虚を埋められるかなどわからない。一つ言えるのは、自分に何が起こるのかに興味はあるし、好奇心は持っていたいということだけ」

バーで身体を維持するこれまでの基礎レッスンは引退後の今も続けている。陶芸もしたいし、自然保護活動も一層力をいれたい。今後ダンサーの指導やバレエ団を率いるなどのことには一切興味がないという。

キャリアを振り返って一つ後悔がある。フィガロ紙に「振付家ピナ・バウシュと仕事がしたかった」と語っているのだ。

「ピナ・バウシュと一緒に仕事をしなかったのを非常に後悔した。彼女はダンサーのなかに眠っているものを開花させる方法を知っている。要求の多い人だから、それが不安で彼女の所に行けなかった。彼女がもし私のなかにクラシックのダンサーしか見出さないとしたら。不安だった」

f:id:kotorio:20170212020133p:plain 引退後に処分しなければならないのは、これまで保管してきた公演のトウシューズ。「25年前から全てのトウを保管してきた。幾つかは大切な人にあげたが、引退後これらを燃やすことから始まるかも」

振付家マッツ・エックに「青い炎」と呼ばれたギエム。冷静で情熱的な炎。

フランスラジオ「フランスアンテール」ではギエムはこう受け答えしていた。

ーーー(インタビュアー)「モーリス・ベジャールはギエムはすべてを持っているダンサーだと言った。技術も能力もあり、クラシックからモダンまでこなし、厳格であると同時に自由だ。あなたにもし足りなかったものがあるとすれば?」

ギエム「・・・時間、でしょうか・・・」

ライフ・イン・プログレス、人生は続く。

シルヴィ・ギエムという生き方・その3

・「マドモワゼル・ノン」

英ロイヤル移籍後は「仕事を選ぶ」ことで有名になった。ジャーナリスト嫌いはもとよりだが、バレエ団の監督に対してもノン。英メディアがつけたあだ名が「マドモワゼル・ノン」

「ダンサーは幼い頃から厳しい身体の訓練を受け、従順な人が多い。でも私は違う」「合理性に欠けるものを常に拒否してきた。振付家には、動作に表現が伴わなければならないという人もいるが、私は動作それ自体が表現になりうると考える。若い頃から、仰々しい仕草をするよう指示されても断った。私を気分屋で高慢とみなした人も多い。薄情な性格ゆえ《役柄》を演じることができない、とも非難された。でも私に言わせればそれは逆」

1988年、オペラ座で「聖セバスティアンの殉教」公演の際。舞台芸術家ボブ・ウィルソンに教わったのはーー「大事なのは、そこに真実があるかどうか。動作は演じ手にとって何かしらの意味を持たなければならない。自分の心で感じていない動作は、どんなときでも正しくないのだということ。ボブのおかげで、私は自らの表現を純化できた。演ずるとは、クラシックのステレオタイプ化された古くさいポーズをすることではない」

映画監督兼俳優のギヨーム・ガリエンヌがギエムについて語る。以下フランス版「ヴァニティ・フェア」より。

「ある日、彼女にどんな仕事をしているのかと尋ねられた。撮ろうとしていた映画の話をしたら彼女は怒って、そんな仕事は絶対にするなと言う。アーティストであるか如何は、その人がどんな選択をするか、ということだと。その言葉はぼくを自由にした。自分には、自分がしたいことをする権利のみならず「そうする義務」がある。その場でエージェントに電話をし、その仕事を断った。そのとき、自分は生涯で初めて「アーティスト」になったと感じた」

f:id:kotorio:20170212013805p:plain ギエムに言わせれば、ダンサーが仕事を選ぶことは、長いキャリアを築く上でとても重要だ。

英ロイヤル移籍後は、バレエ団の都合ではなく自分自身に合わせて身体管理ができるようになった。仕事と休息を自分自身で管理する。ギエムはアシスタントを雇わないことでも知られている。日本製の10年手帳を愛用して日程を管理し、現役中、ほとんどケガで悩まされなかった。

この話は、フィガロ紙を始めフランスTVでも繰り返し語っている。とはいえ、初めてのケガが36歳で、ダンサーならそのとき引退していてもなんの不思議もない年齢だったことも。

英「タイムズ」紙の報道が詳しい。公演の後には温水浴。コマとザックという2匹のホワイトスイスシェパードを連れ、スイスの山中を3時間ほど散歩する。これは、身体を維持する日課でもある。

f:id:kotorio:20170212013835p:plain ギエムが政治活動にも力を注いでいることは有名だ。その点でも多くのダンサーと一線を画す。近年熱心に支援してきたのが自然保護団体「シーシェパード」。2013年の英BBC「フォース・オブ・ネイチャー」で語った。

「シーシェパードは、行動する団体。彼らは常に現場に行く。問題が起きている場所に行き、問題となっている行動をやめさせようとする。言葉を減らし、行動を増やすという姿勢は、私と通ずる。行動しなければ始まらない、という考え方のことだ。放っておけば状況は悪化するだけ。手をこまねいていていいのか」

他にも、種子の多様性を守るNPO「ココペリ」を支援している。英国、フランス、温室効果ガスを大量に排出する国に税金をおさめるより、節税した分を自然保護団体に寄付したほうがいい。それもスイスで暮らす理由の一つかもしれないと言う。

2015年、ギエムは日本の高松宮殿下記念世界文化賞を受賞した。賞金の1500万円も、自然保護活動のため使うとしている。

・ヴィーガン、自然保護活動のきっかけ

「パリ・オペラ座を離れ、ロンドンに行ったとき、アパート暮らしを始めた。小さな庭があって、そこでガーデニングを始め、植物を植え、剪定し、生長を観察した。それらは私に忍耐を教えてくれた。人間の傲慢さに気づくようになった」(マダム・フィガロ紙・以下同)

「人間は自分たちの利益のため、未来を考えず生態系のバランスを崩している。私自身は、コンポストを作っている。動物に関するテレビ番組を見て彼ら生きものの苦しみを知り、ベジタリアンになった」

正確にいうと、現在はヴィーガン(肉・魚だけでなく乳製品も食べない厳格なベジタリアン)。以前はイタリア産の生ハムやソーセージを食べていたが「倫理的な理由で決めたことなので」食べたくなったりはしない、という。朝食はフルーツ、ミューズリー、サラダ、昼食にタンパク源として豆腐やナッツ。もともと食べても太らない体質だったので、若い時はコカ・コーラとポテトチップスを好んでいたほど。食生活は大きく変わった。様々なスパイスを使ったベジタリアン料理を作るのも好きだという。

その4(ラスト)に続く

シルヴィ・ギエムという生き方・その2

フランス国立視聴覚研究所(INA)アーカイブに19歳のギエムの映像が残っている。

www.ina.fr

・体操からオペラ座ダンサーまでの道のり

ギエムは1965年パリ生まれ。父方の祖父母はスペイン内戦でカタルーニャからフランスに逃れてきた移民。祖母はフランス語が話せず、読み書きもできなかった。周囲を嫌って暮らしていた。後年、ギエムは自分がコミュニケーションが苦手なのはこうした家庭環境に由来するかもしれないと語る。

母親は体操教師、父親は機械工。母親の指導のもと、体操をはじめオリンピック出場をめざすほどに。11歳のとき「表現力を高める計画のもと」突然、パリ・オペラ座バレエ学校で一年間バレエを学ぶ研修生に選ばれてしまう。

フィガロ紙に語ったーー子供の頃の夢は「パン屋さんかお菓子屋さん」

パリ・オペラ座バレエ学校の教師は「魔女」であり、校内も寮も陰湿きわまりない雰囲気。英「インテリジェント・ライフ」誌の記事。

「あの学校の校風は異様。誰も楽しんでいる様子がなかった」

f:id:kotorio:20170212011056p:plain 教えられたことをこなすのは簡単だった。バレエ学校の1年が終わる頃、公演の声がかかった。バレエを楽しいと思ったことはなかったが、舞台に立つ感覚は知りたいと思った。衣装合わせや舞台メイクの準備をするうち「舞台こそ人生でしたいことだ」と確信した。以降、学校は嫌でもバレエの練習に励みトップで通過。1981年、16歳でオペラ座バレエ団のコール・ド・バレエに入り、1984年、19歳でルドルフ・ヌレエフによって史上最年少、最高位のエトワールに抜擢される。

・キャリアは自分で決める

「シルヴィ・ギエム」という名は1980~90年代の世界最高のダンサーの一人として確固たる存在に。だが彼女には反対派も多い。もっとも叩かれたのは、片足トウで立ち、もう一方の足を頭まで真っ直ぐ高く上げる「六時のポーズ」。バレエは体操ではない、クラシックの伝統を覆す下品なポーズである、と。マラーホフのパロディも有名。英「スペクテイター」誌より。

f:id:kotorio:20170212010924p:plain「私の踊り方に我慢がならないと私を嫌う人も多いけれど、仕方ない。万人に気に入られたいわけではないから」 

強靭かつ柔軟、神から授けられたような身体をもつギエム。伝統を打ち破り、挑戦することで、表現の枠を広げてきた唯一の女性ダンサー。1987年、振付家ウィリアム・フォーサイスがギエムのためにコンテンポラリー作品『イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド』を振り付けた。(フォーサイスの代表作)

・国家的損失とまで言われた英ロイヤルへの移籍

23歳という若さで、パリ・オペラ座を離れる。世界中のバレエ団からのオファーでの客演、フォーサイスのような前衛振付家との仕事など、新しい挑戦をパリ・オペラ座が許さなかったからだ。英ロイヤルが「年に25回公演に出れば、あとは自由にしていい」という条件で、ギエム獲得に成功する。一方フランスでは「国家的損失」と大スキャンダルになった。オペラ座を出てどこに行くところがあるのか(オペラ座こそが世界最高峰なのに)という人もいた。

再びフランス国立視聴覚研究所(INA)のアーカイブ。移籍公表当時の映像がある。

 (*それにしてもこのような貴重な映像が国によって管理され、無料で一般公開されているのも芸術の国フランスならでは)

www.ina.fr

世界最高峰の美と歴史と技術集団であるパリ・オペラ座から、より「演劇性」の深いロイヤルへの移籍は、若くしてトップに登りつめ、世間のしがらみで孤立していた彼女を一層円熟させた。フォーサイスは言う。「彼女は自分のキャリアを自分で決めた最初のバレリーナ。そのことだけでも偉業だ」

その3へ続く。

シルヴィ・ギエムという生き方・その1

ギエムの引退発表は日本で大きなニュースとなったが、最後の公演も2015年大晦日のボレロも、好意的に評価する人は少ない。引退後2年、人々は彗星の如く現れる明日のスターに夢中で、彼女の名を探しても、引退を発表した以降の記事は、殆ど出て来ない。

彼女は今、どこで何を考え暮らしているのかーーー引退から2年を経て、これまでのダンス人生をどう振り返っているのか。今後のキャリアについて。わたしはどうしてもギエム本人に、直接インタビューしたかった。それができたら死んでもいい、と周囲に公言していたぐらい、夢だった。英語でもフランス語でも良かった。日本のエージェントや通訳を介さず、直接対話をする事がこちら側の条件だった。フェイスブックを通じて事あるごとに本人にメッセージを送ってはいたが、ただでさえ取材嫌いのギエムが返事をくれるはずもなかった。

仕方がないので今ここでする。引退後の、フランス、英国、イタリアでの各紙報道をまとめて、ギエムがこれまでどう生き、今何を考え、今後どうしたいのか、わかる限り。本シリーズは全4回。ギエムという生き方を記しておきたい。

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《その1》

「ダンサーに与えられた時間はとても短く、それはダンサー自身が一番わかっているものだ。いま踊らなければ、次はない、40歳になったらおしまい。そんな世界」11歳から踊りはじめて39年。50歳になる2015年末で引退を公表したギエム。フランス紙の報道をここでまとめてみる。

・引退を決めた理由、そのきっかけ

「ある日の朝、ベッドから起きて夫ジルに言った『引退しようと思う。決めた』。自分でショックを覚えたーー」(フィガロ紙)

「ダンサーにとって時間があっという間に過ぎることを12歳頃から気付いていた。ダンサーのキャリアの終わりを嫌というほど見てきた。燃え尽き、何をすればいいのかわからなくなってしまうダンサーたちも多い。辞めた後の人生を考えていなかった人たちだ。私は現在のレベル、水準をキープできなくなるのに耐えきれない。わたしは徹底した完璧主義だから。引き際は自分で決めるべきと直感した」(リベラシオン紙)

ギエムに影響を与えた振付家のマッツ・エック(70)やウィリアム・フォーサイス(65)が引退した事も彼女の決断に影響した。

「彼らの引退にショックを覚え、また、自分がどんなに好運に恵まれていたか気付いた。辞めるのもいまだ、ときっぱりと思った」(リベラシオン)

・なぜ日本が最後の地に?

「16歳でパリ・オペラ座の海外公演で初めて行ったのが日本。今回のさよならツアーが終わるのも日本。環が閉じる。わたしは日本が好き。日本の美学には、純粋なもの、伝統と近代が自然に入り混じっているから。他人への言葉、行動を慎み、相手を尊重するところ。日本人の仕事も好きだ。職人が作った品々、和傘、和紙、庭園や陶芸。私は日本で多くを得た」(フィガロ紙)

以来、ほぼ毎年といっていいほど来日し、陶芸にも傾倒したギエム。

・モーリス・ベジャールとの縁

「外の人間のほうが、違った視点で物事を見られる。日本人観客のなかには、西洋からもたらされたバレエを日本の伝統とは対照的なものとして崇拝する人もいる。でも日本人は影への感受性を持つ。洗練されたものを好み、自分たちの心に語りかけるものを見つけることができる。だから日本人はモーリス・ベジャールを好むのだろう。彼の振り付けは絵画的かつ仏教的なアプローチをすることがあるから。きらびやかで、衣装も素敵で、ストーリーもわかりやすいような作品ではない。日本人は、イリ・キリアンも好きでしょう。英国ではキリアンもベジャールも評論家から嫌われているが。日本人は、ああいったものに詩を見出し美学を見出し、心を打たれる。振付と音楽の間を感じとる」
以下「テレラマ」誌。

「ベジャールは最初の師というべき存在で1986年にソロの振付をしてくれた。彼は内気な私が自分の殻に籠もらぬよう手を差し伸べてくれた。彼は私に目をかけ、踊ることはまず自分自身を知ること、自分を受け入れることだと私に教えた」

その2に続く。

 

イリ・キリアンの詩篇性について

www.youtube.com

昨日はストラヴィンスキーの詩篇について書いたが、この作曲家の有名な言葉として「音楽は音楽以外の何も表現しない」というものがある。つまり「音楽は感情や心理を表現しない」「音楽は《超個人的な超現実的なもの》のみ表現する」という意味。

今日になってふと気付いたのだが、それはまさに詩篇を振り付けたイリ・キリアンのダンスに対する方向性、まったくもって、そのものではないかと。

キリアンは前にも述べたようにジョン・クランコに師事。のちネザーランド・ダンス・シアターにて芸術監督を続けた。群舞全体がシンメトリーでミニマムな踊りをする。音楽との親和性が他のコンテ振付家の誰より高い。

現代物は好みではないといいつつ、キリアン、キリアンとこの頃わたしが言い続けているのも、実際、彼がある意味でダンスの本質を痛いほど突いているからだ。

ピナの場合、作品そのものが肌に合わないというか、生理的に受け付けない。一方でキリアン作品は高度な芸術が私の中でどういう基準か、認められ、とりあえず観て振付家の言葉を見出そうと思える。

キリアンの詩篇性については、作品がオペラ座レパートリー入りしたことから今後も見る機会が多く、継続して考察していくことができる。

明日は再びギエムに戻って、ダンサーの「ノン」孤高のリスポンシビリティ(責任)を請け負うことについて。

芸術に、ダンスに、「癒し」だけは何があろうと求めない。巷に安物のテラピーが溢れているこの時代。人々の癒されたい病は、芸術の高みと相容れない。

詩篇交響曲 イリ・キリアン Symphony of PsalmsーJiri KYLYAN

f:id:kotorio:20170210030728p:plainキリアンは、意外にもオーレリー・デュポンが監督として最初に選んだ作品となった。前ミルピエ監督は「バランシン、ロビンズなどアメリカ趣味を2年もの間オペラ座にもたらした、私はオペラ座の正当な歴史に回帰する」と述べたデュポンの意思、方向性が強く伝わる3公演。

1947年プラハ出身の振付家イリ・キリアンは現代ダンスの大御所で、作品数は100を超える。振付キャリアも長く、作品傾向がどんどん変化しているのもこの人の面白みの一つかもしれない。物語性のあるものから、抽象作品まで。「音楽と一体になった振付」という点で、バランシンと似た方向性だと思う。

f:id:kotorio:20170210031555p:plain「詩篇」はキリアンがNDT監督に任命直後に振り付けたもので1996年初演。(パリでのキリアン作品は2006年にデュポン自身が「ベラ・フィギュラ」を踊って以来だと思う)

舞台壁面には絨毯がかけられている。祈祷のための椅子が小道具として用意され、厳かで濃密な空間。男女8人のダンサーがデュオを構成しグループ化していく。目を引くのはマリ=アニエス・ジロ。彼女はこういう役をやらせたらピカイチ。

詩篇について個人的な想いを綴っておく。

私は動きがあってそれに音楽を後付けするのでなく、あくまで音楽先にありきで、それに心が動かさなければ踊ろうと思わない、と何度もこのブログで書いてきた。

ストラヴィンスキーの5つあるシンフォニーの中では、詩篇の特殊性、その特殊性に基づかない普遍性というコントラディクション(矛盾)、音楽そのものの総合的な面白さが、私の振り付け意欲と想像をかきたてる。形式上はカンタータ。旧約聖書・詩篇から合唱をメインに、人声に近いバイオリンとビオラとクラリネットをわざと欠いた管弦楽で合唱を際立たせる。ストラヴィンスキーの交響曲いうだけで録音を探すのに苦労するのだが、詩篇は中でも少なくて結局ベルリンフィルだよな、ということになってしまう。チェコフィルがいいという人もいる。

指揮者の解釈もさることながら、儀式的、宗教的な旋律の中に、人間の力強さを聴くときと、危うい向こう側からのささやきにも聴こえるときと、そのときのこちらの精神状態によってもだいぶ異なるのだが、キリアンにとってはそのどちらでもないような気がする。フィガロやルモンドでこの作品評論を探したが、キリアンの解釈に言及したものは一切なく。

要するに、今日言いたかったことは、ストラビンスキーが楽譜にし、キリアンが身体で示したそのことを、私は筆でやり遂げたい、ということだ。

流れに従い、流れを制す。

dance, dance, otherwise we are lost

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2009年に急逝した振付家のピナ・バウシュと、それを継ぐドイツのヴッパタール舞踊団。3月にさいたまで来日公演があるようです。ピナの20年来の友人、ヴィム・ヴェンダース監督が3Dで映画化したことなどから、ダンスを知らなかった人にもだいぶピナの名前は広まったよう。

私はピナ作品に対してはアンチ派ですが、後年、黒い服に包んだ細く折れそうなピナの身体、ゆっくりとたばこをくゆらす面影には惹かれます。加えて、ピナの教育的情熱とコレオグラファーとしての生き方そのものにも。彼女が遺したものは、人間への入り口ですから。

私もあんなおばあちゃんになりたいな。

 

「とにかく働き続ければ、突然何かしら小さなものが生まれます。
それがどこへ行くのかはわかりませんが、
誰かが灯した明かりのようなものです。
再び働き続ける勇気を、元気を取り戻します」

「dance, dance, otherwise we are lost」
ーー踊り続けなさい、自らを見失わないように
                 ーーピナ・バウシュ